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【翻刻】本朝画法大伝①ー和漢画祖伝記


原文:国書データベース
国書データベースの画像を元に専門家に翻刻依頼をしたものです。

本朝画法大伝

和漢画祖伝記

画に和漢の別あり、古は 本朝に名手多し、中ニも百済河成巨勢金岡藤原信実(土佐家之祖)、和画ノ達人なり、しかるに人皇百一代後小松院ノ御宇、応永年中に異国より如雪乱芳軒と云僧来りて、漢画を描(ヱカ)きて名を当時に播(ホド)こす、爰に狩野祐清正信(元信か父 永享年中人也)といふ者あり、如雪を師として漢画を学べり、又其後周文と(春育(イク)とも云)唐僧来り、相国寺に住し漢画をよくす、雲谷寺之座主雪舟(備中国赤濱之人 也姓ハ山田也)(満渓斎とも米元山主ともいふ、後花園院寛正年中大明に入、四明天台に登り第一座主と成、帰都之後周防国山口雲谷寺に住す、仍て雲谷と云)周文を師とし漢画を学ぶ、此時正信も同じく周文に教を受たり、雪舟・正信同門たるを以て両人之筆勢周文に髣髴(ホウホツ)たり(サモニタリ)、又藤原信実か末裔に土佐将監光信と云者、天性和画に工にして遠祖信実にも恥ず和画之第一と称せらる時に正信か子光信(後古法眼といふ)土佐光信か女を娶(メト)りて縁家の好を結び、且光信に和絵の法を受たり、此時諸国乱れて軍戦しば〱打続世間間おだやかならず、光信は難を紀州にさけ、或は泉州和州に身をひそめて太平之時を俟けり、雪舟は筑前に下り蘆(アシ)屋に寓居して釜の絵を書て給食す、後又大明国に渡り張有聲を師として画の草を習得て 本朝に帰ル、是本朝草画のはしめなり、是より前は皆真画のミにして草なし、此雪舟を漢画師といふ、又元信は本朝に産れて何ぞ異国の風骨を事とせんやといふて漢画を物の数ともせず、専 本朝の風格を建とす、是に於て和漢の両品を別てり、雪舟を漢画師と名付ヶ、元信を 本朝の画師と称する心を以て本画師と称せり、是によりて自然と狩野氏の流儀を総名に本画と呼来れり、曾て明国の鄞城鄭沢(キンジャウテイタク)といふ者元信に書を贈りて亶(マコト)に狩野氏ハ画家の徴証也といへり、又土佐光信は曾て累世和画の名家なれば漢画に心を寄せず漢物を描(エガヽ)ず草画を描ず、唯真画のミ益事とせり、仍而和画師と呼来れり、以上合せて三画師と云(雪舟・元信・光信三家也)土佐ハ天性器用の勝れたる者なり、元信は修行シ勝れたる者也とぞ(案ずるに狩野元信我意をたて 漢画に事とせす 本朝之風格を立といへども、元来雪舟・正信両人ともに周文に漢画を学びしより、元信もおのづから漢画の筆勢あり、況や草画を雪舟より伝受、事なれば漢画にあらずしてなんぞ和の風格のミといはんや、又土佐・光信に和画の法を学ふにより和漢混雑して其筆勢和にあらず漢にあらず自我一家者といふべし、又土佐家にハ多くは和の人倫を描を宗として草木芲鳥を事とせず、侭に禽獣を画たるも皆和の禽獣也、すべて人倫草木芲鳥に至るまて精密をつとむ、依而草画を描事多くハなし、其精密に至ては狩野家は流の及所にあらず)

浪華画師後素軒識