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狩野派とは?歴史と成り立ちを解説します!【日本画】

こんにちは、日本画家の深町聡美です。

皆さんは日本画&日本史で最も有名な画家と言ったら誰が思いつきますか?


きっと
「個人のことはよく覚えてないけど、狩野派だな~」
という方がほとんどではないでしょうか!?


「よく覚えていないけど、日本史で苦しめられた」
「なんでずっと日本史に出てくるの?」

「でも今はなんでないの?」
というあなたのために!

  • 狩野派はいつ、どこで誰が始めたのか!?
  • 狩野派の絵の特徴って何なの?
  • 狩野派って実際どれくらいスゴイの!?偉いの!?
  • なんで狩野派は今ないの!?


という疑問にお答えいたします!


特に最後の文章は必見!
ぜひお付き合いください!

狩野派の歴史のはじまりとは?誰がどこで始めたの?

狩野永徳唐獅子図
狩野永徳 – [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4210868による

狩野派って何でそんなに有名なの?

400年続いた、世界でも有数の派閥だからです!

狩野派とは、日本史の中で最も有名な絵の派閥の一つ。

その始まりは、室町時代中期に遡ります。

狩野派の初代は狩野正信かのうまさのぶという人物でした。

彼は1420年頃に生まれ、1460年代から1470年代あたりに狩野派を作ったとされています。


画僧、周文しゅうぶんから絵を習った狩野正信は室町将軍、足利義政のもとで御用絵師として活動を始めます。

その後、息子の狩野元信かのうもとのぶが父の画風を継承、発展させ狩野派を確立しました。

工房で合作するシステムも狩野元信が始めたんだって!



狩野正信は1代で地位を築き上げたの?

周文 パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7693455による

狩野正信の前は狩野派はなかったのに、突然御用絵師に上り詰めたの?


狩野正信以前に狩野派はなかったのか?

狩野派は突然現れたのか気になりますよね。


狩野派の初代である狩野正信の師匠は周文といいました。

実はこの周文も、足利家から強い庇護を受け、御用絵師を務めました


というのも、相国寺という、足利家が建立した寺院に所属していたのです。

相国寺は京都にあり、足利家の政治、文化の中心であり、大変な支援を受けていました。


狩野正信が周文に弟子入りしたきっかけは分かっていませんが、この出会いが後400年も続く絵所になったんですね!

周文は雪舟の師匠ともされています。


狩野派のはじまりまとめ
  • 狩野派は室町時代中期に狩野正信によって始まった。
  • 狩野正信の師は御用絵師である周文。
  • 周文は中国風の絵を描き、雪舟の師でもある。

狩野派の画風の特徴とは?最強の画風って本当?

狩野正信 – http://d-archive.kyuhaku.jp/da/collection/info/id/2/, パブリック・ドメイン,


狩野派の特徴は「和と中、どっちも盛り」なところです。


狩野派の初期には、中国の水墨画の技法や様式を取り入れた作品が多く見られました。

これは、当時の日本の文化や美術が中国の影響を強く受けていたためです。


実際、周文や狩野正信、その子どもの狩野元信は、中国の宋元画の技法を学び、それをもとにした作品をつくりました。



ですが、狩野元信は中国風だけを重んじたわけではありません。

狩野元信中国風の画風を受け継ぎつつも、
日本の伝統的な大和絵の要素を取り入れ、
新しい画風を作り上げたのです!


革新的な画風を作ったんだね!



そして狩野元信や、後の世代である狩野永徳や狩野探幽たちは、金箔を多用した豪華な障壁画や屏風絵を制作し、独自の日本画様式を確立したのです。



私達が、「和=金箔の背景」と思っているのは、
実は狩野派によって確立された様式と言っても過言ではないのです。

狩野元信以前にも金箔地の背景はありましたが、狩野派の影響力で以て日本人の美意識に浸透させたと言えます。



このような狩野派の技法は、弟子たちだけに伝えられ門外不出とされました。


そして、独自の技法を継承した狩野派は、日本史において重要な絵画派閥となったのです。


狩野正信が中国の水墨画の技法を使って描き…

狩野元信が和と中華を合体させて…

金箔地の作品なんかを後の世代まで受け継いでいったんだね。


狩野派の継承のしかたとは?技を受け継いだのは子供だけじゃない!


狩野派は、主に血縁によって発展してきました。

狩野正信の次の代は息子の狩野元信でしたよね。
このように、狩野派では代々子孫たちが、その技術と精神を次世代に伝えたのです。

でも狩野探幽は弟子を娘婿にして後を継がせました。

息子はいなかったの!?



主に血縁で技術を繋いだ狩野家ですが、
狩野探幽のころは狩野派も分家に分かれるなどしていました。


探幽の息子である安信や守信も独立して活動をしています。


そこで、狩野探幽が次の長として白羽の矢を立てたのが、狩野養信でした。


ここでは、狩野家の維持のために血筋ではなく技術が選ばれたのです。


400年も続いているといろいろあるんだね…

今より変化が少ないとはいえ、よく続きましたよね。



特に、江戸時代には幕府の庇護を受けたことで、狩野派は約400年間にわたり日本の画壇の中心として君臨しています​。


さあ次は、狩野派の絶頂期である江戸時代の活躍を見ていきましょう!


江戸時代の狩野派の活躍とは!?人気作ぞくぞく!?

狩野探幽 – http://www.salvastyle.com/menu_japanese/tanyu.html, パブリック・ドメイン,


狩野派の全盛期が訪れたのは江戸時代です。
狩野探幽など特に優れた絵師が活躍した時代とされています。

この狩野さんなら覚えがあるよ!


狩野探幽はゲームキャラにもなっていましたね。



狩野探幽は江戸幕府の御用絵師として江戸城や二条城の障壁画を描き、狩野派の名声を高めました。

また、前述の分派も狩野派の影響を広めた一因だと言われています。

でも御用絵師って言われても狩野派のスゴさがピンとこないなあ。

では狩野派のスゴさを次の章で具体的に見ていきましょう!



狩野派の偉さとはどれくらいだったの?御用絵師ってなに?

まずは御用絵師の意味から教えてよ。

超簡単に言うと幕府から仕事を受けられる絵師です。


御用絵師とは幕府や皇室、大名、貴族などに任命されることで役職につける絵師のこと!

こういうと地方大名などの絵師も含まれますが、本家の狩野は、なんと江戸幕府から任命されていました。


しかも御用絵師の中でも最強クラスの「奥絵師」という役職です。


幕府の儀式やイベントの装飾も行う、まさに国を代表するアーティスト集団だったのです。

オリンピックや国際会議の視覚演出担当的な役割だったんですね。



今とは違い、それだけの立場になると地位や待遇が決まっています。

その地位のすごさがわかる文章が、
狩野派の技法書「丹精指南」に残っているので見てみましょう!


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狩野派の絵所の資格と地位とは?高僧と同レベルの地位だった!


狩野派の技法書「丹精指南」にはこのように書かれています。

江戸時代において、狩野派の絵師たちは『絵所えどころ』として幕府に仕えました。
彼らは、法印や法眼といった上位の僧位を与えられ、一般の庶民以上の格式を持つ存在でした。これにより、彼らは特別な地位と待遇を受け、社会的にも非常に高い評価を得ていました​ 。

丹青指南

法印とは最上位の僧位、法眼も上から二番目の僧位です。

当時は仏教の影響力も今より大きかったでしょうから、その地位の高さが伺えますね。

御用絵師狩野派のさらなる特権生活とは?

狩野探幽 – 大阪城天守閣, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9558314による

狩野家は地位が高かったんだね!

また、領土を貰えるくらいスゴイ立場でした!



ただ、何かの位が高いだけでは大したことはないですよね。


でももちろん、狩野派の絵師たちの特権は位だけではありません


狩野派の絵師たちは、領地を所持するほどの禄高(俸給)を受け取っており、最上位の絵師である「奥絵師」として位置づけられていました。


奥絵師は国家最高ランクの絵師だったよね!



御用絵師のランクは大きく分けて三つに分かれています。

  • 町絵師:都度仕事を受注
  • 表絵師:住吉派、板谷家など14家
  • 奥絵師狩野四家



最上位にあたる奥絵師は江戸城の装飾、管理など、特に重要な仕事を請け負っていました。


都度の仕事の報酬に加え、領土や俸禄を貰え、将軍に会うこともできる…
そんな上流階級の暮らしぶりですが、その仕事は非常に重労働だったとか。


分業制や粉本(お手本)での教育は、効率化を徹底した中から生まれたシステムだったことが分かりますね。


「丹青指南」では、礼式などでは狩野家は十徳に括り袴を着用し、頭には布製の帽子をかぶるなど、特別な装いで登城したと書かれています。



現代ではその服装のすごさはよくわかりませんが、本に記載して残しておくほどのことだったと伺えます。


奥絵師狩野派のすごさまとめ
  • 御用絵師とは幕府などの仕事を請け負った絵師のこと
  • その中でも最高位が奥絵師であり、将軍にも会えた。
  • 最高位の僧位、土地、禄高なども与えられた

狩野派が今はない理由とは?滅んだ理由は時代の変化だった!

そんなにスゴイ狩野派なのに、なんで無くなったの?

時代の変化が大きかったからです。


狩野派は約400年間にわたり日本絵画の中心として活躍しました。

でも今では日本史の中に書かれるのみ……


「今でも御用絵師として活躍する!
誰もが知る狩野派の正当な末裔!」
って、聞いたことがないですよね。


こんなに有名だった狩野派も、衰退してしまったのです……


「400年も栄えたのにどうして!?

その理由をこれから紐解いていきましょう!

狩野派の衰退の理由とは①時代の変化と幕府の崩壊

現皇居

一つ目の理由は、時代の変化と幕府の崩壊です。


狩野派の繁栄は、江戸幕府の庇護のもとで成り立っていました。


幕府の御用絵師として、多くの障壁画や城郭装飾を手掛けることで、その地位を確立していたのです。


しかし、明治維新によって江戸幕府が崩壊し、徳川家は失墜します。
それより幕府からの支援が途絶えてしまいました。


まさに大口顧客が突然消えたようなものですね。


さらに、明治維新の影響は幕府がなくなったことだけではありません……

狩野派の衰退の理由とは②西洋文化の影響



二つ目の理由は西洋文化の影響


明治時代に入ると、西洋文化が流入します。
もちろん美術の分野でも西洋絵画の影響が強まりました。


西洋の写実主義や油絵の技法が日本に紹介されると、多くの画家がそれに魅了され、新しい技法や表現方法を学び始めたのです。

これにより、狩野派の伝統的な技法は時代遅れでダサいものと思われるようになりました。



特に一部の政治家や学者でそのような考え方は根強かったようです。

それじゃあ狩野派の支援者になってもらうのは難しいね…


ですが、新しい日本画を作り出したのも実は狩野派だったりします。


この話はまた後日…

狩野派の衰退の理由とは③芸術的創造性の欠如


三つ目の理由は「芸術的創造性の欠如」です。

狩野派の絵師たちは、伝統の維持を重視し、祖先から伝わる技法、様式を忠実に守り続けました。


例えば狩野派の分業制度は二代目から始まり、約300年以上も続いています。

確かに、これは安定したクオリティとスピードを保つ工夫でした。


ですが同時に芸術的な創造性を失うことになったのです。


特によく指摘されるのは粉本ふんぽん主義」ですね。

粉本主義とは?
粉本主義は代々受け継いだ粉本(お手本)を真似するのを第一とした方針のことです。
これにより同じような様式がずっと繰り返され、技術革新が起きにくくなります。
そして模写だけを重視することでリアルさ、精緻さを欠いていきました。


その一方で台頭するのが写生を重視した円山応挙です。

現代では応挙が実践した写生の考え方が、日本画に根付いています。

足のない幽霊を描いた人だね!


狩野派の衰退の理由とは④教育機関としての役割の変化



狩野派は多くの画家を育ててきました。

しかし明治以降、その役割は美術学校に取って代わられることになります。


その結果として、狩野派の一極集中状態は失われ、勢力も衰えてしまいました。


さらに西洋の影響で教育も近代化され、
西洋の美術教育が行われるようになります。


そして、西洋画の技法や美術理論を学ぶために、日本全国に美術学校が設立されました。

東京美術学校(現東京藝術大学)もそのひとつです。


こうして狩野派のような、特定の派閥に所属する美術教育ではなく、教育機関による美術教育に変わっていきました。


これらの原因から狩野派は次第に衰退してしまったのです。


ですが、狩野派の技術と美意識は現代の日本画にも受け継がれています。

狩野派は残っていないけど「日本的」な絵を形成したのは狩野派だったんだね

狩野派衰退の理由まとめ
  • 江戸幕府の支援がなくなった
  • 西洋文化の影響で狩野派の絵は前時代的と見なされた
  • 狩野派絵師の技術の低下や創造性の欠如
  • 美術学校に教育機関としての役割が移った

まとめー狩野派とは?歴史と成り立ちを解説します!【日本画】


以上、狩野派の歴史と成り立ちを解説してきました!

とはいえ狩野派の歴史は400年!
とてもじゃありませんが、一記事では紹介できません。


他にも多数の絵師や作品が存在していますので、ぜひご自身で調べて、狩野派絵師を覚えて下さいね!



さて、この記事は「丹青指南」の最終章、「絵所資格」の解説のために作成したものです。


最後に「丹青指南」の作者であり狩野派絵師である市川守静氏の最後の文をご紹介します。


これまで記述した絵具および、彩色の方法は、狩野家の絵の中にのみ描かれた技術であって、これまで世に発表できなかった方法です。

現在の状況から考えると、この方法が消滅する時がいつか到来するかもしれません。

そのため編者は、終生の置き土産として、この本に包み隠さず明言しました。
これがこの本の特色です。

なので、この手順をよく身に付ければ、どのような彩色でも描くのは難しくないのです。

市川守静著:丹青指南(筆者現代語訳)



  • 参考サイト・参考文献

「奥絵師(おくえし)」の仕事と門人教育|東京国立博物館
メトロポリタン美術館|白鷺
メトロポリタン美術館|四季折々の京都の楽しみ
など




原文はこちらの国会図書館から全て見る事できます。

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